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オーブンに火を入れる。
古いオーブンだ。横に長い石窯が徐々に温められていく。
設定温度は上火が200度、下火が220度。ダンパーは閉めてある。
昨夜仕込んだシュー生地300個、鉄板15枚分を冷凍庫から出してラックに差した。
時計の短針は朝の5時半を指している。朝の冷気はこの古くて広い厨房にも静かに佇んでいる。
今ここにいるのは僕だけだ。ミキサーに20コートのボウルとビーターをセットする。
仕込むのはショートブレッドの生地だ。クッキーに似た、しかしクッキーよりほろほろとした直方体のお菓子。僕はこれが好きで、ここに入社して初めに覚えたのがこの焼き菓子だ。味は四種類。チーズとチョコと紅茶とクランベリーだ。僕の一押しは紅茶だ。使っている紅茶は安いアールグレイだ。ここではさほど高い材料は使わない。紅茶は二級品、コーヒー粉末はインスタント、チョコは質より扱いやすさを重視――しかし最も基本的な土台となる材料には手を抜かない。乳酸菌が付与された発酵バター、植物性油脂を含まない純生クリーム、マダガスカル産の特注バニラビーンズ。バターは風味を、クリームは口溶けを、バニラは味の奥深さを支える。なにもかもにお金をかけるわけにはいかない。しかし、こだわるべきところはこだわらなければならない。バターとクリームとバニラは、この店のプライドだ。これら材料を崩すぐらいならモノ売る意味なんてない。
ミキサーに発酵バター2本を入れて起動する。バターを練って柔らかくするのだ。その間にグラニュー糖、薄力粉、塩、ベーキングパウダーを計量しふるいにかける。バターが柔らかくなったところでそれらを投入し、最後に卵黄で生地をまとめる。出来た生地を机に広げてめん棒で伸ばす。オーブンが徐々に温まる。それに伴い朝の冷気が部屋から少しずつ出ていく。
これはいつもの光景だ。
既に身についた日々の習慣だ。
僕の腕に刻まれた何本もの火傷跡と同様に、うまく馴染んで僕そのものになっている。
僕は、僕の習慣です。
習慣たちの慣れの果てが、僕という人間です。
人をつくるのは習慣だ。
意思なんてものは些細なものでしかない。
習慣は積み重なるが、意思はふとしたことで消えるからだ。
浜辺の砂の城と同じだ。
僕の意思は、流され消える砂の城です。
僕がパティシエになったのは、僕が何者かになりたかったからだ。
どこかのだれか、になりたかったのだ。
何々店の何々とか、何々社の何々とか。
伝わるかな。
どこの誰でもない、宙ぶらりの無能じゃなくて。
物語の人物みたいに、名前があって、地に足のついた確かな技があって。
ともかく、そんな曖昧なものに僕はなりたかった。それほどまでに僕は自信がなく、自我というものを見失っていた。自分というものを、自分の外側に求めたのだった。
その結果行きついたのがここだ。バターと砂糖の焼けた匂いがロッカーの取っ手にまでこびりついた古いケーキ屋だ。僕はこの匂いが好きで、入社当時、この匂いの中にいられるのであれば先輩からどんなにきついことを言われようが耐えていけると思ったぐらいだ。
オーブンの予熱が終わる。シュー生地を焼く準備が整った。
人の背ほどもある移動式ラックをオーブンの前に移動し、差してある鉄板を次々と窯の中へと入れていく。セットする時間は50分。しっかり焼いた存在感のある皮がここのシュークリームだ。
時刻は6時10分。洗浄機のスイッチをオンにして一度外に出た。
冬の朝の匂い。空はようやく明け始めた。
あと30分もすれば他の同僚たちもやってくるだろう。
厨房には戻らず、店の裏手に回って自分の車の後部座席で横になった。
座席ポケットに放置された何年か前の手帳をぱらぱらとめくる。
僕は変わっただろうか。
手は自動的に火傷跡をなぞっていた。
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