チーズケーキ(弱いスフレタイプの)
2018.3.3
外は雨だ。
慣れないベッド、背丈の高い枕。
強い雨音と窓の隙間から入り込む湿気が冬の終わりを教える。
ホテルの枕ってどうしてこう首がぐいと曲がる高さなのだろう。
低い枕が好きだ。枕なしで寝るのも悪くない。
上体を起こすと夢の残り香が消えた。
昨夜からホテルにいる。親が来ているからだ。
古いが綺麗でおしゃれなホテルで、親が自分と同じ歳の頃からあるらしい。
モダンな客室、吹き抜け構造のフロアの1階には半屋内プールがある。
隣接してカフェスペース、そして綺麗に整えられた白浜。
そこから広がる海は雨で誰もいないながらも、リゾートらしさを失っていない。
おしゃれには疎いけど、多分ここは時代に左右されないと思う。
地に足のついたおしゃれだ。こういうのなんて言えばいいのだろう。格調高い?
部屋でパソコンを前に勉強した。
ときどきお菓子もつくった。
やってることは日常とさほど変わらない。
いつもと同じことを、いつもと違う場所で繰り返す。
用意したのはネーブルオレンジと砂糖とブランデーだ。
使い慣れたコンベクションオーブンだ。
スライスしたオレンジを一日かけてゆっくり煮詰めた。
しっかりと糖度を高めると、オレンジは外の皮まで透明になる。
綺麗に透けるようになったオレンジをオーブンで乾燥させる。
オレンジコンフィだ。
これに湯煎したチョコをつけるとオランジェットになる。
気長にチョコを乾燥させる。
その間に弱いスフレのチーズケーキを作ることにした。
クラシックショコラと類似した割合のレシピを試す。
手帳を開く。適当なページにペンを走らせた。
G 5
F 10
B 20
C 30
M 10
E-y 20
E-w 30
G 15
Gはグラニュー糖、Fは小麦粉、BはバターでCはチーズ。
Mは牛乳。そしてE-yは卵黄でE-wは卵白だ。
いつもこんな風に書いている。僕の手帳は日付を無視したレシピのメモ帳だ。
あるいは他愛のない日記と仕事の覚え書きだ。
手帳らしく予定を書き込んでいるページもある。
さながらキメラの様相だ。2月の19日から23日を跨いでフィナンシェとクッキーのレシピが書かれている。
その前のページにはパンと各種ショコラケーキのレシピ。
さらにその前のページにはエリスのABC理論(内容は忘れてしまった)、上下関係についての苛立ち、取り留めのない想いと自己分析が挿入されており、数ページに渡って現在受けている仕事の研修のメモが一面を覆いつくしている。
そしてスコーンのレシピ。
前職のメモ。
あらゆる走り書きを項目も罫線も無視してそこら中に散りばめている。
この散らばり方は僕の頭の中と同じだと思う。
僕の頭の中も、これと同様のとっ散らかり方をしている。
部屋も同様だ。
ものが綺麗に整頓されている状態を維持出来た試しがない。
小説の続きと、仕事に使う知識と、今日の夕ご飯が一列に並んでいる。
紅茶クッキーと、SQL入門の参考書と、うさこの帰宅時間が机の上で逆立ちの練習をしている。
なにかに集中する、ってことが苦手だ。
どうしたら集中できるのか分からない。
僕の集中は、多分だけど吹いたら飛んでしまう程度の薄っぺらな集中だ。
紙飛行機みたいに、窓から飛び出して自由な飛行を始める。
朝礼のときに紙飛行機を飛ばして怒られたのは僕だ。
それが中学の話だったか、それとも高校の話だったかは思い出せない。
学ランを着ていた。僕の学生時代は自信のなさとプライドの高さ、そして同時に過剰な自信とプライドのなさをパレットにぶちまけてぐちゃぐちゃに描いた風景画だった。
僕が学んだのは一歩身を引くことだった。
衝動の手綱をぽいと放して、一歩後ろから見守ることだった。
絵の具をパレットごとキャンパスにぶちまけることだった。
必要なのは勇気ではなく諦めと苛立ちだった。
途方もなくぐちゃぐちゃとした時期だった。
その余波は大学時代の前半まで尾を引き、今ではそのぐちゃぐちゃにぶちまけられた絵の具がうまい具合に自分自身になった。
話は戻って、チーズケーキについて。
湯煎焼きして冷蔵庫に入れたチーズケーキを夕飯のあとに紅茶を飲みながら食べた。
優しい味だった。でも主張が弱くて、ちょっとつまらない味だ。
クラシックショコラと同じ割合だとこうなるのか。
チョコは主張が強いが、チーズは弱い。だから出来上がりもパンチに欠ける味になった。
今度はチーズをもっと増やそう。
物語同様、ケーキや焼き菓子も必要なのはキャラ立ちだ。
その人がその人だと言い張るに足る個性だ。
素材より素材らしく。
それが輝くためのコツだと思う。
もとの素材の良さを引き出して、さらにそれを際立たせる。
もっと主張しろ。
主張しなきゃならない。
主張するべきなにかが僕の中に無かったとして、
それでも僕は、でっちあげてでも主張しなきゃならない。
なにかを。
たぶん、空白ではないという証を。
ホテルの廊下を猫が歩く。
うさこと電話しながら、猫のあとをゆっくりとついていった。